謎解き「春耕道しるべ(7)」

富士三合目

2011年12月21日 02:57

「春耕道しるべ」の探索もいよいよ「謎解き」の世界に入ってきました。
富士市立博物館の庭に「春耕道しるべ」が4基あるとの情報を得て、早速行って見ました。確かに4基ありましたが、富士市教育委員会さんが立てていた「道標番号表示塔」がないので、どれが何番か判りません。もともと春耕さんは道しるべに番号は付けていなかったようで、市教育委員会さんがどこかの時点で番号を付けて、番号表示塔を立てたものと思われます。


(富士市立博物館の庭:「春耕道しるべ」が4基立っています)


(すぐそばに立っていた説明板で、No2、26、28、40、だと書いてあります)

この内一番大きなものは富士岡3の「石原木材店」さん脇にあったとの説明が市立博物館のHPに記載されており、一方、「(有)仁藤石材工業」さんのHPの「春耕道しるべアルバム」の写真でNo2となっています。


(春耕道しるべNo2)
(正面)
「十里木道(じゃうりぎみち) まかど がうど 13丁≒1.4km」
「うないがふちみち いまみや 30丁≒3.2km」
「いしゐ そうげんさわ 13丁≒1.4km」
「くわざき(1り半≒5.8km) せこつじ(2り35丁≒11.8km)」
(左側面)
「明治39年 駿東郡原里村 いんの(5り半≒22km) をぎわら(6り7丁≒24km)
(右側面)
「吉永村富士岡」
(裏面)
「下花守 仁藤春耕」
さて、No2は判明したとして、他の3基の番号が判りません。これは一時横に置いといて・・。

話は飛びますが、「吉永まちづくりセンター」(吉永第一小学校の前)の庭にNo27があります。

(春耕道しるべNo27)


(右 みづくち 十りぎみち(1り9丁=約5km) 左せこつじ(19丁=約2.1km)

この道しるべは「千束」から移設したとの記録があり(文献1)、千束は桑崎←勢子辻間に流れている千束川流域で、今宮→勢子辻行きバス停に「千束下」と「千束上」があるので概ねその辺り(丸火公園入口付近)でしょうが、道しるべに彫られた「みづくち」の地名がどこにあったのか不明(もしかしたら千束川水源方向)で、中央十りぎみち≒5km、「左せこつじ19丁=約2.1km)」からすると、森林墓園入口付近の山道で三叉路になっていたのではないかと思われます。

このことから前に戻ってNo26とNo28の元あった場所を推定すると、道標番号No29が今宮にあるのでNo26は勢子辻側、No28は千束→今宮間にあったものと思われます。


(春耕道しるべ:推定No26)
「右やまみち」→前列向かって左側の道しるべ


(春耕道しるべ:推定No28)
「右やまみち 左十りぎみち せこつじ」→前列向かって右側の道しるべ

残りのもう一つNo40は

(春耕道しるべ:推定No40)
「右ながしま(14丁半≒1.6km) 左くわざき(13丁≒1.4km)」→後列向かって右側の道しるべ

この道しるべも「ながしま」の地名がどこか判らず、元の場所は不明ですが、桑崎から半径1.4km以内にあったのは彫られている距離から明らかです。現在鵜無ケ淵橋のたもとにあるNo41はどこかから移設されたのではないかと私は勝手に推測しています。と言うのはNo41は別の道しるべで、桑崎152番地付近にあったとの記録(前出:文献1)があり、「右よしわらみち 左ふじをか」と彫られていて、上半分が欠損していたとあります。No39は勢子辻にあり、No42は今宮交差点付近にあるので、この辺り番号が錯綜していて混乱します。もう少し謎解きを続ける必要がありそうです。

参考文献1):「富士市の石造文化財第3集・・今泉・原田・吉永地区調査概要」1987年富士市教育委員会





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